ここ数年「共生」「市民社会への参加」「住民意識」等のことばが流行る 。
ニューカマーと呼ばれる肉体低賃金労働に従事し日本経済を底辺で支える外国人労働者にとって、これらは閉鎖的でエゴな日本社会を開かれた多文化的社会へと転換するという意味でけっして悪くないものなのだ 。
しかしことばが「俗語」に歪曲され日本社会と在日朝鮮人の関係を不透明にする美辞麗句として作用している点は憂慮するものだ 。もっとも、在日朝鮮人の一部の中でこの「共生論」を俗っぽく合唱する現実は本当に問題である。「共生論」と共鳴する形態に「住民としての市民社会への参加」という見解がある。
「民族」に代わる新たな共通語として「住民・市民社会」に着目した参政権運動が基本と訴えるのだ。確かに日本の高度経済成長は民族を意識させた<朝鮮人部落>を解体し在日の居住環境と生活のレベルを改善、結果トンポ達の意識は「私生活重視・中産化」し「祖国」「民族」等、抽象的言葉は重みをなくしてしまったように見える。
既に若い世代は1世的民族観、祖国観を実感できないという。しかしそれ以上に1世との世代的違いを在日と祖国をつなぐすべてまでも否定する結果へと意図的にすり替えられているような気がしてならないのは私だけなのだろうか。よく祖国を実感できないから在日運動だという。「実感」と言うが「在日がそれほど真剣に地域社会に参与しているのか?当の日本社会の在日に対する排他癖はいまも別に何も変わって無いやん!」というのが実のところ私の「実感」である。
これら「住民・市民社会」の視覚は多かれ少なかれ在日朝鮮人の運命を日本(国・地方)社会の政治システムにゆだねる、というところに限定しているところであろう。しかし在日を規定する現実は日本のみならず祖国の政治状況である。
過去、韓国が日韓条約の際、植民地の謝罪と償いをないがしろにしたために日本での私達に対する偏見は是正されないばかりか逆に助長される結果を産み多大な生活的制限と苦渋をなめた。在日である私達が祖国を「実感」しようがしまいが「生」の条件を本国の政治状況が規定するのはまぎれもない現実である。そのことに目をそむけて日本社会のみに目を向けるのは危険である。
朝鮮総聯が民族、祖国に関心をもち、目を向けて統一運動に取りくむのは、<古い因習から抜け出せない>からではない。自らの運命を自らの力で切り開くためである。
今必要なスピリットは、「住民」「選挙民」ではなく民族自主の「主体性」である。
※1996年今から30年前に執筆されたコラムです。あの時から何が変わりなにがかわっ
ていないのか?案外なにも変わっていないのでは?いろいろ思う所があるコラム意見な
どありましたらコメント書いてくださいね。

0 件のコメント:
コメントを投稿